2007年05月04日
常識を疑おうを疑おう
このところ愛読させていただいているUEI清水社長のブログで納得感のあるエントリーがあったのでメモ。
CMSとモバイルとフィードと四畳半社長: 水は低きに流れる/プアーコンテンツ隆盛の理由
2000年にSUNマイクロシステムズとNTTドコモが主催したワイヤレスサミットで僕は携帯電話が家庭用ゲーム機に対して持つ優位性を以下のように説明しました。
・携帯電話はいつでもネットワークに接続することができるが、ゲーム機はできない
・携帯電話はダウンロードしたコンテンツをずっと保持できるがゲーム機はできない
・携帯電話はコンテンツそのものをいつでも購入でるきがゲーム機はできない
・携帯電話はコンテンツに在庫リスクがないがゲーム機は在庫リスクがある
・携帯電話は常に電源が入っているが、ゲーム機はそうではない
ネット接続、保存、オンライン購入、デジタル流通、常時電源ONというゲーム機との差異ポイントを7年前に語っていたそうで、現在はそのいくつかがゲーム機でも可能になっていますが、本質的にはこのあたりが携帯の強みであることに変わりはないのだろうな、と。ゲームに限らずウェブ端末としての携帯を考える上では、常時携行と音声通話とが加わる気がしている。
モノ・サービスには歴史を超えても変わらない本質というものがあるけど、「●●もついている」というのと「本質的に●●である」というのではまったく異なる。それはユーザーが接する感覚が異なるから。特により多くの人に使ってもらおうとするサービスの場合は生まれ持った本質が大事。後からゴテゴテついてきたものは使われない。使うのはガジェッターだけ。それではキャズムは超えない。
単純な質でいえば、映画とテレビドラマではテレビドラマの方が格段に落ちますが、テレビドラマは「向こうからやってくる」もので、映画は「見に行く」ものだという利用スタイルの違いから、双方が両立し、今はむしろ人気テレビドラマから映画化したり、24シリーズのようにテレビドラマそのもののストーリーがとてつもなく長い(総延長で20時間くらいでしょうか)ものが成立したりしています。
コンテンツにしても機能にしても、作り手側が質やあるべき姿のようなものを議論しているうちはユーザーはついてきてくれない。受け手側が「当然こうだよね」と思っているところにすっぽりはまるものというのは、高品質とかべき論とかとはまったくかけ離れたところにあることが多い。そして、マスが受け入れた「当然本質」は、逆に作り手の思い込みを飲み込んでしまったりもする。
新しいものごとを考えるときによく「常識を疑おう」、という掛け声がかかったりするけれど、その言葉にはどこか違和感を感じる。「常識」という言葉自体が作り手の意識のことを表しているからだと思う。自分の意識を自分が疑っても、疑っている意識自体が相変わらず作り手である自分自身の発想だろうから。
本当にユーザーになりきって、かつ鳥瞰的な目線で本質を捉えて考えることができるかどうか。
価値を生み出すものづくりっていうのはそういうことなんだろうと思う。
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